日朝首脳会談から20年 解決見通せず拉致被害者家族に危機感

北朝鮮が日本人の拉致を認めた初の日朝首脳会談から17日で20年がたちました。
この間、帰国した5人以外の被害者の安否は分からないままで、17日に集会に出席した被害者の家族は解決の道筋が全く見通せない状況に強い危機感を訴えるとともに、肉親の早期帰国に向けた政府の具体的な行動を求めました。

20年前の9月17日に行われた初の日朝首脳会談で北朝鮮は日本人の拉致を認め5人の被害者が帰国しましたが、安否が分からない被害者は政府が認定しているだけでも12人に上っています。

解決にあまりにも長い時間がかかる中、この間、8人の親が子どもと再会したいという願いをかなえられないまま、この世を去りました。

17日、さいたま市で開かれた集会に出席した田口八重子さんの長男で幼くして母親を拉致された飯塚耕一郎さん(45)は「親と子が永遠に会えない状況をまた一つ、また一つと増やしてしまっているのが実態です。この20年を振り返って、日本政府には被害者を取り戻す意思が本当にあったのか疑念を感じざるをえない」と危機感を示しました。

そのうえで「20年間も被害者を取り返せない異常な事態が続いていることを分かってほしい。この状況を早く打破し、すべての拉致被害者の帰国を実現させるため、岸田政権には北朝鮮への新たなアプローチも検討してほしい」と話し、政府の具体的な行動を求めました。

飯塚耕一郎さん 育ての親の遺志継いで

幼い頃に母親を拉致された飯塚耕一郎さん。

当時1歳。

よちよち歩きを始めたばかりだった耕一郎さんに、母、八重子さんの記憶はありません。
先週、埼玉県内の霊園に耕一郎さんの姿がありました。

去年暮れ、耕一郎さんを引き取って実の子として育ててきた飯塚繁雄さんが83歳で死去。

繁雄さんの墓に線香を手向け、静かに手を合わせた耕一郎さんは「日朝首脳会談から20年がたつのに、いまだに被害者を救えず申し訳ないと。継続して頑張るので力を貸してくださいと祈りました」と話しました。

繁雄さんの自宅には、この20年の活動を記録した手帳が残されています。

20年前の9月17日のページには「首相訪朝」。

翌日の欄には「外務省訪問 死亡報告」の文字。

しかし、裏付けを取らないまま政府が「死亡」と発表したことを知った繁雄さんは、以来、八重子さんの生存を信じて救出活動に身を投じてきました。

部屋に置かれたトレーニング用のバイク。

晩年、繁雄さんが健康を維持しようと使っていたものです。

しかし、耕一郎さんと母親を再会させるという宿願は果たせませんでした。

耕一郎さんは「元気な姿で八重子さんと会うために少しでも体力を維持しようとしていたのではないか。家族は命を削ってこの問題に取り組んでいますが、おやじにはそのリミットが来てしまった。ただただ寂しいし、八重子さんに会わせたかった。おやじの努力を水泡に帰すわけにはいかない」と語りました。

日朝首脳会談当時、25歳だった耕一郎さん。

ことし45歳になりました。 

「この20年、日本政府は何をやってきたのか。本気で被害者を取り返すための行動を何か起こしたのか。家族が亡くなっても『痛恨の極み』というフレーズで終わり。『一刻も早く救います』とか、キム・ジョンウン(金正恩)総書記に『拉致問題を解決したいので首脳会談をやりましょう』といったメッセージをなぜ言えないのか。総理大臣がみずからのことばに意思を乗せて伝えることが重要なので、局面を変えるために一石を投じてほしい」。

拉致から44年。

いまだ母親の面影を手繰り寄せることができない耕一郎さんの願いです。

横田早紀江さん 「何とかめぐみちゃんを迎えてあげたい」

86歳になった横田めぐみさんの母、早紀江さん。

夫の滋さんは、おととし、娘との再会を果たせないまま87歳でこの世を去りました。

夫婦で全国を回って続けてきた救出を訴える講演は1400回以上。

しかし、高齢となった今、もうそれだけの体力は残っていません。

「何とか頑張ってめぐみちゃんを迎えてあげたい一心で、私が死なないように、病気をしないようにと、栄養をとるようにしてるんです」。

自宅近くのスーパーで買い物をしながらそう話した早紀江さん。

今は何より健康管理に気を配っていますが、それもすべて「娘を抱き締めるまで倒れるわけにはいかない」という覚悟からです。

めぐみさんは45年前の中学1年生のとき、バドミントン部の練習を終えて帰る途中、拉致されました。
早紀江さんが今回初めて見せてくれた、当時めぐみさんが使っていた折り畳み式の赤い「くし」。

部活動のあと髪をとかすのに使っていたということですが、拉致された日は学校に持って行っておらず、早紀江さんが45年間、大切に保管してきました。
バドミントンの練習着とユニフォームもあの日のままです。

練習着の胸元には紺色の糸で「横田めぐみ」と刺しゅうがされていて、ユニフォームにはゼッケンを付けるためのボタンが6つ、縫い付けられています。

このとき初めてめぐみさんにボタンの付け方を教えたという早紀江さん。

「『友達はお母さんが付けてくれるのに』と言っていましたが、『それは分かっているけど、やっておいたほうが絶対いいよ』と言って、やらせてみたんです。そうしたら一生懸命にやり遂げたんですよ」と、当時を思い返していました。

年を重ねてきた早紀江さんは今、自分の命には限りがあり、残された時間が決して多くないことを強く意識せざるをえなくなっています。

早紀江さんは「これだけ総理大臣が代わって、絶え間なく言い続けて国民運動にもなっているのに、なぜ事態が動かないのか分からない。岸田総理大臣には一刻も早く日朝首脳会談を開いて、キム・ジョンウン(金正恩)総書記と直接対話をしてほしい」と話しました。

北朝鮮のキム・ジョンウン総書記には「拉致はお父様がなさったことで、あなたの罪ではない。被害者を帰してくれたら、その喜びで『ありがとう』と言って、日本から北朝鮮に必要なものを送ることができます。日朝関係が回復すればお互いによい未来を描けるんです」と呼びかけました。

蓮池薫さん 「拉致問題の本質は『親子の再会』」

日朝首脳会談から20年に合わせてNHKのインタビューに応じた拉致被害者の蓮池薫さんは、残された被害者の親世代が高齢となる中、政府に対し「時間があと僅かであることを北朝鮮に認識させないと、解決の機会を永久に逸することになる」と強い危機感を示しました。

蓮池薫さんは1978年に新潟の海岸から北朝鮮に拉致され、2002年の日朝首脳会談のあと帰国を果たしました。

NHKのインタビューに応じた蓮池さんは20年前の首脳会談について「日朝の国交正常化という目標が明確なものになって、『そのためには拉致を認めるしかない』という状況を作り出したのは大きな成果だったと思う」と振り返りました。

一方、ほかの被害者の安否情報に関する当時の政府の対応については「被害者を徹底的に取り戻すという姿勢が崩れて、北朝鮮にこのままで行けると思わせた部分があったのではないか。とことん突き詰めたうえで交渉に当たっていれば、あのようなずさんな証拠を出してきたりはできなかったと思う」と指摘しました。

そして「20年間も解決しなかったということは、もちろん北朝鮮にいちばんの責任があるが、日本政府もなすべきことが十分できていなかったということではないか。その教訓を生かしてほしい」と話しました。

蓮池さんが強調したのは、高齢化が進み被害者との再会を果たせずに亡くなる親が増えていることです。

蓮池さんは「拉致問題の本質は『親子の再会』であり、それが果たせて初めて結果を出せたと言える。日本政府がそれを北朝鮮に伝え、このままだと大きなチャンスを失ってしまうのではないかという危機感を北朝鮮に持たせないといけない」と指摘しました。

そして、北朝鮮が核・ミサイル開発を加速させる姿勢を鮮明にしていることに触れ「核の問題がなかなか動かない状況になっている中で、日本は核と拉致の問題の両方を北朝鮮と交渉するのではなく、拉致だけでも取り出して交渉しなければ早期解決は難しい。被害者を帰せば一定の人道支援ができることを伝え、そのカードを今のうちに北朝鮮に示しておく必要がある」と強調し、政府に具体的な行動を求めました。

有本明弘さん 94歳 最高齢の拉致被害者家族

拉致被害者の家族の中で最高齢の有本恵子さんの父親、明弘さん。

ことし、94歳になりました。

妻の嘉代子さんとともにおよそ30年にわたって救出活動を続けてきましたが、嘉代子さんはおととし、94歳で亡くなりました。

明弘さんは、足腰の衰えから、日課としていた散歩も次第に難しくなり、出かけるときは車いすに乗ることが増えました。

1983年にイギリス留学を終えてヨーロッパを旅行中に北朝鮮に拉致された恵子さん。

神戸市の自宅には今も、恵子さんの大学時代の写真や、海外の滞在先から家族に宛てて送られた手紙が大切に保管されています。

明弘さんは「みずから動かなければならないと考え、娘の救出に結び付くと思ったことはすべてやってきた。今後も政府や政治家には、自分がこの世を去るまで対応を求めていきたい」と話していました。

松本孟さん 妹と再会し母の墓前に報告できる日を

鳥取県米子市の拉致被害者、松本京子さんの兄、孟さん。

京子さんの帰国を一緒に待っていた母の三江さんは10年前に亡くなりました。

京子さんと再会し、三江さんの墓前で帰国の報告ができる日を願っていますが、孟さんもことし75歳。

体の衰えもあって、1日4回に分けて、およそ10種類の薬を服用しています。

孟さんは「今までは、とにかく妹が帰るまでは頑張らないといけない、どんな形にせよ頑張っていくんだという気持ちでした。しかし、このごろは妹のことを思っても、ふと肩の力が抜けるような気がします」と話し、どこまで体力がもつか不安をにじませました。

先月、新型コロナの影響でおよそ1年ぶりとなった鳥取県内での講演会。

孟さんは改めて妹との再会実現を訴えました。

「多くの人に私たちの気持ちを分かってもらうためには直接伝えないといけない」。

孟さんは、被害者の救出を最後まで求めていく覚悟です。

岸田首相「ご家族の切迫感をしっかり受け止めなければならない」

岸田総理大臣は訪問先の福島県南相馬市で、記者団に対し「日朝ピョンヤン宣言に基づいて拉致・核・ミサイルといった諸懸案を解決し、不幸な過去を清算して国交正常化を目指すという方針は今後も何ら変わらない。宣言は日朝双方の首脳により署名された文書であり、北朝鮮側も否定していない。宣言に基づき、確認された事項が誠実に実施されることが重要だ」と述べました。

また、拉致問題について「5人の被害者が帰国して以来、1人の帰国も実現していないことは痛恨の極みで、ご家族の切迫感をしっかり受け止めなければならない。私自身、条件を付けずにキム・ジョンウン総書記と直接向き合う決意を述べてきているが、あらゆるチャンスを逃すことなく、全力で行動していかなければならない」と述べました。