音楽家 坂本龍一さん死去 71歳 YMOなどで世界的に活躍

映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞を受賞し、音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」のメンバーとしても活躍した音楽家の坂本龍一さんが、先月28日、亡くなりました。71歳でした。

「芸術は長く、人生は短し」

坂本さんの好きだったという一節。坂本さんの歩みと業績を振り返ります。

坂本龍一さんは幼少の頃からピアノと作曲を学び、東京芸術大学に入学しました。
大学院を修了後、1978年にミュージシャンの細野晴臣さん、高橋幸宏さんとともに「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」としてアルバムを発表し、当時の最新の電子楽器を使った斬新な音楽性で“テクノポップ”という新たなジャンルを築きました。

1983年にYMOが解散したあと、坂本さんは、同じ年に公開された映画「戦場のメリークリスマス」に俳優として出演し、坂本さんが手がけた映画のテーマ曲は、長年にわたって聞き続けられる代表曲の一つとなりました。
そして1988年には、映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞したほか、グラミー賞など数々の賞を受賞して国際的な評価を高めました。

また、東日本大震災の被災者支援の音楽活動にも力を注いだほか、脱原発と非核を訴える活動を行うなど、社会的な活動にも力を入れてきました。
2014年、中咽頭がんと診断され、治療後に音楽活動を再開しましたが、その後、別のがんが見つかり、治療を続けていました。

所属事務所「最期まで音楽と共にある日々」

坂本龍一さんの所属事務所やレコード会社などが連名でホームページに訃報を報告しました。

この中では「2020年6月に見つかった癌の治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした。これまで坂本の活動を応援してくださったファンのみなさま、関係者のみなさま、そして病気治癒を目指し最善を尽くしてくださった日米の医療従事者のみなさまに、あらためて深く御礼申し上げます」としています。

「芸術は長く、人生は短し」

そして最後は坂本さんの好きだったという次のことばで締めくくられています。

「最後に、坂本が好んだ一節をご紹介します。
 Ars longa,vita brevis
 芸術は長く、人生は短し」

治療続けながら音楽活動 演奏配信も

坂本龍一さんは、がんの治療を行いながら、去年12月にも新たに収録したピアノ演奏をオンラインコンサートとして世界中に配信するなど、精力的に音楽活動を続けてきました。

オンラインコンサートでは「戦場のメリークリスマス」のメインテーマ曲など13曲を披露しました。

コンサートが配信される直前に公開された本人のメッセージ映像では、治療を続けていることを述べた上で「かなり体力も落ちてしまって1時間とか1時間半の通常のコンサートはもう難しいんですよね。なので今回は、一曲ずつ撮影してそれを編集してひとつながりのコンサートのようにして発表しようということになりました」などと語っていました。

最新の技術に挑戦し続けた

坂本龍一さんは1970年代、まだ一般的では無かった電子楽器シンセサイザーの可能性にいち早く注目してレコーディングやライブの演奏に取り入れ、その革新的な音楽は国内だけでなく海外からも高く評価されました。

シンセサイザーとの出会いについて坂本さんは、2014年に放送されたNHKの番組「スコラ 坂本龍一音楽の学校」の中で、「尺八」を吹けるようになるには何年もかかるが、シンセサイザーを使えば近いような音は出て、それによって使える音色が飛躍的に増えるとして「ものすごく喜びを感じていました」と話しています。

先端技術への興味は楽器だけでなく、インターネットのさまざまなサービスもれい明期から活用して、自身のウェブサイトもいち早く立ち上げたほか、1995年マイクロソフト社の「ウィンドウズ95」が日本で発売された直後の11月に日本武道館で行ったコンサートを、当時の最先端の配信技術を用いて通信衛星を経由したインターネットで配信するなど、今の動画や音楽配信にも使われる技術の発展にも貢献しました。

その後もおととし、代表曲のひとつ「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲をNFTと呼ばれるデジタル認証の技術を使って販売するなど新しい技術への関心は衰えない一方で、近年注目されるAIの技術については、一歩引いた見方を示すこともありました。

ことし2月に放送された民放の音楽番組「関ジャム完全燃SHOW」の中で坂本さんは、AIがミュージシャンの領域に近づくことは「当分は不可能だと僕は思っています」と述べたうえで、「そんな事にAIを使うより、気候変動をどうするかとか、貧困や格差をどうするか、そういう事にAIを使ってほしい」と、長年、反戦や環境保護などの社会的な活動も続けてきた坂本さんならではのコメントを寄せていました。

【社会的な活動も】

「非戦」 平和へのメッセージ

坂本龍一さんは平和や脱原発、環境保護や復興支援など社会的な分野で積極的に行動し、自身の意見を社会に発信してきました。

アメリカ・ニューヨークに拠点を置き、2001年の同時多発テロを経験した坂本さんは「非戦」ということばを使い、平和へのメッセージを発信してきました。

俳優の吉永小百合さんと平和を願うチャリティコンサートを各地で開催したり、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法案に反対したりといった活動に取り組んできました。

2015年、国会前で行われた反対集会に参加した際は「憲法の精神、9条の精神がここまで根付いていることを皆さんが示してくれ、勇気づけられている。民主主義を取り戻す、憲法の精神を取り戻す。ぼくも皆さんと一緒に行動してまいります」と訴えていました。

「非核」と「脱原発」

「非核」のメッセージも発信し続けました。

福島第一原子力発電所の事故のあとは作家の大江健三郎さんらと原発を廃止するための法律の制定を目指すグループを設立したほか、ほかのミュージシャンとともに「脱原発」をテーマにした音楽フェスティバルも開いてきました。

坂本さんは音楽フェスティバルを企画した思いについて、2012年の会見の際「なるべくたくさんの人に来ていただいて、この問題にまず関心をもってもらいたいし、ひとりひとりがよく考えてもらいたいという思いです」と話していました。
坂本さんの死去を受け、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳代表委員は、「優れた音楽家として国際的にも著名な坂本さんのような方が先頭に立って核廃絶を訴えてくれたことは、被爆者にとっても心強い思いでした。同じように活動してくれた大江健三郎さんの訃報があったばかりということもあり、残念に思っています」と話していました。

森林保全の活動

加速する気候変動への行動を起こすため2007年には坂本さん自身が代表理事を務める一般社団法人「more trees(モア・トゥリーズ)」を設立し、全国の自治体と協定を結んで植林など、森林を保全する活動も展開してきました。

2009年に北海道の下川町を視察した際には「森を増やして、CO2の排出を減らすというふうにベクトルを反対に変えなければ人間が住めない星になってしまうかもしれませんのでこれをやらないといけないと思います。下川町も日本という国自体も森林が結構多いんです。ただ、森林はほったらかしておくと、不健康になってしまうので、手をかけて健康な森にしてあげないといけない」と話していました。
坂本さんについて、「more trees」の事務局長 水谷伸吉さんは「これまでの活動で『森が崩壊したところでは文明が滅んでいった』と話されていました。地域で森林保全活動を始める際には必ず宿泊し、地域の人たちとひざをつきあわせて、気さくにお酒を共にしていました」と話していました。

そのうえで、「覚悟はしていましたが、現実として突きつけられると心にぽっかりと穴が空き、ことばが出ませんでした。団体の活動を続け、広げていくことで“教授”の意志を継いでいきたい」と話していました。

東日本大震災の被災地支援も

坂本龍一さんは、音楽活動などを通じて東日本大震災の被災地を支援する活動を続けてきました。

津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市や大船渡市の被災者のため、支援団体の代表を務めて仮設住宅を建設する資金の寄付を全国に募りました。
震災発生から4か月後の2011年7月には仮設住宅を訪れて入居していた人たちと交流したほか、4年前の2019年に陸前高田市でコンサートを行った際にもこの仮設住宅に足を運んでいます。
また、東日本大震災で壊れてしまった楽器の修復をしたり、子どもたちに楽器を贈ったりする取り組みを進め、震災の2年後に宮城県松島町で開催された音楽祭をきっかけに坂本さんの呼びかけで宮城・岩手・福島の3県の子どもたちや若者でつくる楽団「東北ユースオーケストラ」が結成されました。

「わたしたちの音楽は続きます」

坂本さんが亡くなる2日前の先月26日に東京で行われた演奏をオンラインで聴いた坂本さんは「素晴らしかった!!よかったです。みんなありがとうお疲れさまでした」などとメッセージを寄せていました。

坂本さんが亡くなったことについて「東北ユースオーケストラ」は、「皆様とともに、深く哀悼の意を捧げます。これまで導いてくださり、どうもありがとうございました。坂本監督無くしてあり得なかったオーケストラ。わたしたちの音楽は続きます」などとするコメントを発表しました。