京セラ 稲盛和夫名誉会長が死去 90歳 一代で世界的な企業に

京セラを一代で世界的な企業に成長させ、経営破綻した日本航空の会長として再建に尽力した京セラの稲盛和夫名誉会長が今月24日京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。90歳でした。

稲盛和夫氏は鹿児島市で生まれ、鹿児島大学工学部を卒業後、京都のがいしメーカーに就職し、1959年(昭和34年)に知人から出資を受けて、資本金300万円で京都セラミック、今の京セラを設立しました。

みずから開発した工業製品向けのファインセラミックスの技術をもとに事業を拡大し、一代で世界的な企業に成長させました。

現在の京セラは、電子部品や半導体部品などを製造し、年間1兆8000億円の売り上げがあります。

稲盛氏は、独特の経営手法として会社の組織を「アメーバ」と呼ぶ数人ずつの集団に分け、それぞれが事業の計画や目標を立てることで部門ごとの採算を高めたり、社員のやる気を引き出したりする「アメーバ経営」という手法を生み出しました。

また1984年には(昭和59年)通信の自由化の流れを受けて電電公社、今のNTTに対抗するため第二電電=DDIを設立し、2000年にKDDなどと合併して今のKDDIになりました。
さらに、2010年には(平成22年)経営破綻した日本航空の会長に当時の民主党政権から求められて就任し、赤字路線からの撤退や1万6000人に上る人員削減などに踏み切りました。

そして、社員に対して採算性の意識を徹底して持たせることで再建を実現し、破綻から2年8か月という異例の早さで東京証券取引所への株式の再上場につなげるなど、経営手腕を発揮しました。
故・松下幸之助と並び「経営の神様」と評する声も多くその人生哲学や経営哲学を学ぶための勉強会「盛和塾」は、国内だけでなくブラジルやアメリカ、中国など海外にも支部が設置されおよそ1万5000人の塾生が参加するまでになっていました。

ただ、盛和塾の活動は稲盛氏の高齢を理由に、2019年に終了していました。

稲盛氏は今月24日京都市内の自宅で老衰のため亡くなりました。

90歳でした。

稲盛氏の経営哲学とは

稲盛氏は、少人数の集団を組織して採算の向上を図る「アメーバ経営」を提唱したことでも知られています。

「アメーバ経営」は、稲盛氏の実体験から生まれた経営管理の手法で、社内の組織をアメーバと呼ばれる数人ずつの小集団に分け独立採算で運営するものです。

それぞれの小集団で事業の計画や目標を立てることで部門ごとの採算を高めたり、活動の成果を分かりやすく示したりすることで、社員のやる気を引き出し考え方です。

また、こうした経営や組織運営を行うベースとなる考え方が稲盛氏の経験則から生まれた「フィロソフィ」と呼ばれる哲学=考え方です。

「人間として何が正しいか」を判断基準に、人として当然、持つべき根源的な倫理観や道徳観、それに社会的規範にしたがって誰に対しても恥じることのない公正明大な経営や組織運営を行っていく重要性を説いたものです。

こうした稲盛氏の経営哲学は、京セラやKDDIのほか、日本航空の経営再建にも生かされました。

さらに、稲盛氏から教えを請いたいと京都の若手経営者が立ち上げた勉強会「盛和塾」には、国内外の経営者などおよそ1万5000人が塾生として参加し、稲盛氏の経営哲学などを学びました。

KDDI 会長と社長がコメント

稲盛氏は通信の自由化の流れを受けて電電公社、今のNTTに対抗するため1984年に第二電電=DDIを設立。

DDIは2000年にKDDなどと合併して今のKDDIが誕生しました。

稲盛氏は、2001年にKDDIの最高顧問となりました。

KDDIの田中孝司会長は「2000年の3社合併は、小異を捨て大同団結することで、かつてない歴史的な業界再編に至りました。これは稲盛和夫最高顧問の『真に国民のための通信サービスを提供しよう』という新たな大きな志が導いたものと思っています。稲盛和夫最高顧問の多大なる貢献と功績にあらためて感謝申し上げます」とコメントしています。

また、DDIの設立と同時に京セラから移った高橋誠社長は「稲盛和夫最高顧問の経営哲学がしたためられた『KDDIフィロソフィ』は現在も弊社の礎になっています。稲盛和夫最高顧問の遺志を継承する全社員が一丸となって経営理念にもうたっている『豊かなコミュニケーション社会の発展に貢献』できるよう、邁進していく所存です。ここにご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

日本電産 永守重信会長「兄貴のような存在 目標失い寂しい」

日本電産の永守重信会長はNHKの電話インタビューに対し「非常にびっくりした。長いつきあいだが、稲盛さんは兄貴のような存在だった。日本電産のビルから京セラのビルが見えて負けないよう頑張ってきた。目標を失ったようで寂しいです」と話していました。

そして「まっすぐに会社のことを考えていた方で、いわば経営者のかがみのような存在だった。近くにいて教えを請うこともあったが、みずから考えるよう叱咤激励もしてもらった。京都から世界に向かって稲盛さんの教えがあったからこそという会社を作っていくことが使命だと考えている」と話していました。

日本航空 格納庫には当時のことばが

採算性への意識を徹底させながら、安全を第1に日本航空の再建に取り組んだ稲盛和夫氏の思いは今も現場に息づいています。

羽田空港にある日本航空の格納庫には、稲盛氏が会長就任のあいさつの際に社員に向けて送った「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にありさらばひたむきにただ想え気高く強く一筋に」という明治生まれの思想家のことばが現在も掲げられています。

当時、整備士として働いていて今は羽田空港で整備の責任者を務める川添猛さん(50)は、経営破綻による不安が大きい中、稲盛氏のことばでもう1度、会社を立て直そうという思いになったと振り返ります。

整備の現場でも、機体の汚れを拭く布1つ取っても、採算性の意識が徹底されるようになったということで、川添さんは「もちろん安全が第1ですが、その中でも、採算性の意識というのは今も現場で意識されています。稲盛氏のことばを軸に社員の一体感がより深くなったと感じますし、今も仕事に迷った時にはそのときの原点に立ち返って作業しています」と話していました。

日本航空「卓越したリーダーシップにより構造改革と意識改革」

稲盛氏が亡くなったことについて、日本航空は「稲盛名誉顧問のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。2010年の経営破綻の際に弊社に会長としてお越しいただき、その卓越したリーダーシップによって構造改革と意識改革を進められて、再生へと導いていただきました。多大な貢献と功績に改めて感謝申し上げ、心からの哀悼の意を表します」とコメントを発表しました。

稲盛氏とゆかりのある京都では悲しむ声

稲盛氏は、平成7年に京都商工会議所の会頭に就任。

会頭の職を6年間務めるなど、京都の経済界で存在感を示してきました。

また、科学や芸術の振興のため、私財を投じる形で「稲盛財団」を設立しました。

さらに、国際的に貢献した人に対する「京都賞」も創設し、京都賞の受賞者からはノーベル賞の受賞者も多数、出ています。

このほか「京セラ」として、サッカー・Jリーグの「京都サンガ」に出資し、スポーツの振興にも努めました。

稲盛氏とゆかりのある京都市では悲しむ声が聞かれました。

京都市に住む40代の会社員の男性は「稲盛さんの経営手法はどんな会社でも通用するすばらしいものだったので、私も参考にさせてもらっていました。亡くなったのは悲しいですし、大きな損失だと思います」と話していました。

また、京都市に住む80代の女性は「京都にとって誇るべき人だったので、亡くなったと聞いて、本当に残念です」と話していました。

京都府向日市に住む20代の女性は「事業を行っているのですが稲盛さんが書かれた本を読んでたくさん勉強させてもらいました。すばらしい経営者を失ったのは残念ですが、稲盛さんが残していかれたものを参考に、私もがんばっていきたいです」と話していました。

京都府 西脇知事「人材育成し 京都の将来につなげていく」

京都府の西脇知事は30日午後、記者団の取材に応じ「経営者としてはもちろんのこと、京都の経済や科学、芸術、スポーツ、教育など幅広い分野の発展に大きく貢献され、まだまだこれからもご指導をいただきたかっただけに、残念でたまりません」と述べました。

そのうえで「稲盛さんが今まで取り組んでこられた精神や実績を後世に伝え、そして人材を育成し、京都の将来につなげていくことがわれわれの役目だと思っています。今の京都経済をめぐる状況も非常に厳しいので、稲盛さんの志を継ぎ、ご功績に応えるためにも一日も早い回復に向けて努力していきたい」と述べました。

京都市 門川市長「子どもの教育に非常に熱心だった 寂しい」

京都市の門川市長は、教育長を務めていた時から稲盛氏と交流があり、科学や芸術に貢献した人への「京都賞」の創設や「京都市京セラ美術館」への支援など、幅広い分野で市に貢献していたとして、急な別れを惜しんでいました。

門川市長は30日夕方、記者団に対し「尊敬する稲盛さんがご逝去されたと聞いて寂しいかぎりです。子どもの教育に非常に熱心で、とくに家庭環境に恵まれていない人や障害のある人の支援に取り組んでいました。世のため、人のために尽くすことが人間として最も尊いとおっしゃっていて、1人の人間として教えていただいたことを実行していきたいです」と話していました。

京都サンガ 伊藤社長「心に穴があいたような感じ」

稲盛氏はサッカーJ1の京都サンガの熱心なサポーターとしても知られ、クラブの設立に中心的に関わったほか、クラブの名誉会長も務めていました。

稲盛氏が亡くなったことについて京都サンガの伊藤雅章社長は「サンガの礎を築いた稲盛氏が亡くなったことは心に穴があいたような感じです。クラブハウスにひとりで来たこともありました。稲盛氏は地域の人を喜ばせることがチームの発展につながるという考えをもっていたほか、結果的にうまくいかなくても挑戦することを大事にしていたので、その考え方をクラブに残していきたいです」と話していました。

出身の鹿児島市では新聞の号外も

稲盛さんは1932年、現在の鹿児島市城西で生まれました。

鹿児島市にある西田小学校を卒業し、戦時中の1945年には空襲で実家を焼失します。

その後、現在の鹿児島玉龍高校を経て1955年に鹿児島大学工学部を卒業し、1959年に京都セラミック、今の京セラを設立しました。

活動の中心を京都へ移したあとも、故郷・鹿児島との関わりを持ち続けます。

1969年には鹿児島川内工場を1972年には鹿児島国分工場を作りました。

1999年に、鹿児島大学の名誉博士になると、2004年には成績が優秀な学生を表彰する「稲盛賞」が設けられ、卒業式で賞状や薩摩切子のちょこを受賞した18人に贈りました。

また、2005年には、西田小学校の創立130周年に合わせて講演し、児童と一緒に給食も食べました。
2015年に鹿児島県の県民栄誉表彰と鹿児島市から市民栄誉賞が贈られ、2017年には鹿児島大学に銅像が建てられました。

私財をなげうって人材育成にも取り組みました。

2018年に鹿児島大学へ稲盛記念館を寄付したほか、2020年には、かごしま国際交流センター建設のため県と鹿児島市に20億円を寄付します。

常に、故郷・鹿児島に貢献するための活動を続けた稲盛さんは、2019年、87歳の時に社会の発展にこの上ない功績を残し、県民が誇りとして敬愛する人に県が贈る初の名誉県民となりました。

鹿児島市の天文館では、稲盛会長が亡くなったことを知らせる新聞の号外が配られ、買い物客が驚いた様子で受け取っていました。

70代の男性会社員は「鹿児島にとっては大きな存在で惜しい人が亡くなったと思います。やすらかにお眠りください、とだけ言いたいです」と話していました。

80代の女性は「経済面などいろいろな方面で、鹿児島の有名な立派な方だったので残念です。昔の人は辛抱強いからこれだけ成功したのだと思います」と話していました。

鹿児島県 塩田知事「雇用の創出に多大な尽力いただいた」

鹿児島県の塩田知事は、京セラの稲盛和夫名誉会長が亡くなったことを受けて県庁で取材に応じ「県内での工場立地で鹿児島県の雇用の創出に多大な尽力をいただいたほか、国際交流の発展のために多額の寄付もいただき、いろんな形で貢献いただいた。このたびの訃報は大変残念ですが、生前のご功績に敬意を表し、心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

鹿児島市 森 前市長「郷土愛にあふれた方」

親交のあった鹿児島市の森博幸前市長は「まだまだ長生きされて、世界のために活躍されると思っていたので、お亡くなりになったことが信じられない。県民にとっても大きな財産を失うことになる」と述べ、突然の死を惜しんでいました。

また、市長在任時のおととし、国際交流の拠点となる「かごしま国際交流センター」が稲盛さんの寄付を受けて完成したことに触れ「稲盛さんが『県民のために役に立てることがあれば協力したい』とおっしゃったので『国際交流会館をつくりたい』と言ったら、20億円の寄付をいただいた。大学や高校にも私財をなげうってくださって、郷土愛にあふれた方でした。温かい志に感謝申し上げ、心からご冥福をお祈り申し上げたい」と話していました。

稲盛氏が好きだったことばは「敬天愛人」

稲盛和夫氏は一代で電子部品メーカーの京セラを世界的な企業に成長させました。

その稲盛氏が好きだったということばが「敬天愛人」です。

「天を敬い、人を愛す」という意味のこのことばは、同じ鹿児島出身の西郷隆盛がよく使っていたものです。

資金も実績もない町工場でもみずからの技術と仲間を信じれば道がひらけるという稲盛氏の経験から私利私欲のためでなく、一緒に働く仲間を信じることの大切さを説いていて京セラの社是にもなっています。

稲盛氏は、2014年のNHKのインタビューで「人間として何が正しいのかを座標軸に、そこから物事をすべて経営判断することが大切だ。成功した経営者が『俺は社長だ、専務だ』と威張っているのをかいま見るが、そんなんじゃいかんと思う。上に上がれば上がるほど責任は重くなって、これでいいのだろうかと常に自戒して、努力をしていく、そんな生真面目な経営者であってほしい」とみずからの経営哲学を話していました。

勉強会「盛和塾」の塾生は

稲盛氏の経営哲学は、京都の若手経営者が立ち上げた勉強会「盛和塾」の活動によって国内外の経営者などおよそ1万5000人が塾生として学びました。

その経営哲学の根底にあるのが「フィロソフィ」と呼ばれる哲学=考え方です。

「人間として何が正しいか」「人は何のために生きるのか」という問いに向き合う考え方で、人として当然、持つべき根源的な倫理観や道徳観、それに社会的規範にしたがって誰に対しても恥じることのない公正明大な経営や組織運営を行っていく重要性を説いたものです。
その塾生の1人で、東京・中野区でスポーツ施設の設計施工や運営を手がける会社「日本体育施設」の奥裕之会長は2011年12月に「盛和塾」に入塾してから稲盛氏が出席するほぼすべての勉強会に参加していたということです。

奥会長は「体の力が抜けました。メールが届いていて亡くなられていたと。お年ですし、限りある命ですから、いつかはとは思っていましたが、もう少し頑張ってほしかった」と話していました。

そのうえで、稲盛氏を振り返り「世界中がおかしくなっていますし、市場原理主義がいきすぎている。人の幸せがなんなのか、事業をなんのためにやるのか、常に本質ということをなげかけてくださった。確かに経営は甘くないですし、塾生にも厳しいおことばをたくさんいただいたが、その裏側に大きな愛がある。私は厳しさよりもそれを感じました」と話していました。

中国でも多くのメディアが大きく伝える

京セラの稲盛和夫名誉会長は中国でも企業経営者やビジネスマンの間で高い人気があったことから、多くの中国メディアが亡くなったことについて大きく伝えています。

稲盛氏の経営哲学などを学ぶ勉強会「盛和塾」を中国で開催する会社によりますと、勉強会は2007年から中国各地で開かれていて、日本で活動が終了した今も中国では継続され、およそ1万7000人が参加しているということです。

また、ネット通販最大手、アリババグループの創業者、ジャック・マー氏や、中国の通信機器大手、ファーウェイの創業者など、中国を代表する経営者らが稲盛氏を尊敬していたことで知られています。
中国のSNS上では、30日午後、稲盛氏の死去について伝えるニュースが一時、検索ランキングの1位になりました。

コメント欄には「偉大な経営者いい旅立ちを」といった投稿や「尊敬すべき日本人だった」などと、稲盛氏の死去を悼む声が多く寄せられていました。

立民 泉代表「私心なき政治を説かれた」

立憲民主党の泉代表は記者団に「常に、私心なく政治の運営をすることは経営と同じだとわれわれに説いていただいた。『もう一度政権交代可能な政治を』という思いを持ち続けていたと思うので、われわれも諦めず、競争や切磋琢磨(せっさたくま)のある政治環境をつくっていくため、努力したい」と述べました。

立民 安住国対委員長「二大政党制の必要性 志の体現を」

立憲民主党の安住国会対策委員長は記者団に対し「経済界の中で二大政党制の必要性を唱え、与党と分け隔てなく野党の応援もしてくれた。『権力は二大政党で緊張感を持ってやったほうがいい』という稲盛氏の志を体現すべく、頑張っていきたい」と述べました。

立民 小沢一郎氏「見識と人間力に助けられた」

民主党政権で党の幹事長などとして政権運営の中枢を担った立憲民主党の小沢一郎氏は、ツイッターにメッセージを投稿しました。

この中で、小沢氏は「稲盛氏は、早くから、日本には政権交代可能な成熟した民主主義が必要であると認識され、民主党と自由党の合併と、その後の政権交代に強力な支援をいただいた。先を見据える見識と全てを包み込む人間力にどれほど助けられてきたか、わからない」としています。

そのうえで「元気なうちに、もう一度、政権交代をして、何とか恩返しができればと思っていた。本当に残念でならず、心からご冥福をお祈り申し上げる」としています。

公明 竹内政調会長「ぬきんでた たぐいまれな経営者」

地元が京都で稲盛氏と親交があった、公明党の竹内政務調査会長は、記者団に対し「戦後日本経済の一時代を作った偉大な経済人であり、亡くなったことは非常に残念だ。利益だけを追い求めるのではなく、経済社会の在り方を説き、多くの若手経営者を育て、大きな功績がある。ぬきんでた、たぐいまれな経営者であり、心から冥福を祈りたい」と述べました。

国民 前原代表代行「日本を救っていただいた」

京都が地元の国民民主党の前原代表代行は記者団に対し、民主党政権の国土交通大臣として稲盛氏に日本航空の経営トップへの就任を要請したときのことを振り返り「この人しか日本航空を立て直す方はいないということで、お願いにあがり、三顧の礼というのはよく言ったもので、2回断られて、3回目にお引き受けをいただいた。極めて短期間でV字回復を遂げ日本を救っていただいた。やりきれるのは稲盛氏しかいなかったし、感謝してもしきれない。本当に大事な方を亡くした」と述べました。

そのうえで「『1社独占や1党独裁はだめで、競争が必要だ』と何度も話をいただいた。自民党に代わりうる強い政党をもう1回つくって政権交代を実現することを、稲盛氏に誓いたい」と述べました。